人気ブログランキング | 話題のタグを見る
NEW POST

いにしえの何か

いにしえの何か_c0315548_18033512.jpg



カーブがキツイ場合などは
ラインに沿って進まないケースもございますし

望んでのことではなくても散歩の途中で
何処に立ち寄ることもありましょう



甲斐小泉駅に着き 降車時に 予定を詳しく説明をしていて
歩く という発想が ほとんど全くない方が

勘違いをされて 上から目線で ・・・・・話しをややこしくされて
理解していないことを 認めたくもないようすでした


目上のお坊ちゃま




こういったツッコミですとか 遮るような行為

諸々



どうぞ遠慮なくお声をかけていただいて
こちらからも根掘り葉堀りお尋ねできますし


でも…

根も葉もない 類のことには
樹があるとは思われませんので

関知するところではありません




   。




このラインは 無人駅もどれくらいか・・ 結構ありまして
先に数字の入った券をとっておいて 降車時に車内での支払い

車中を車掌さんがまわることが可能なときには 
おみえになったときに清算もできますが 基本「ワンマン」

そのため どれくらいかの駅では 開かない扉もあり(わりと頻繁)
ドアの開閉ボタンは乗客がするので はじめてですと戸惑うかも

何かをみつめていたり 耳がふさがっていたりすると 
(物想いなど^^も) 車内放送も聞こえず ドアが。。。となる


若い男の子が混乱しながらも降りた後の 車内放送(女性)は
「(ドアの開かない車両の説明など)車内放送をよく聞いてください」

とのことで・・    ん。。一度聞いただけでは と


数年前に 「最高地点」にお住まいの方に 電車のドアを含めた話を
し始めましたら どうやら使われたことが(その時点では一度も )
ないのでは。。 と 話題を即変えたことなども思い出されました 

利用する方 しない方   そんな現状(長いこと)  という中
 
券売機もある駅には あり 駅員さんも「いる駅」には おられる
普段はおられても 早朝などは おられなかったり

ICカード対応用設備を ところどころ投入し始めたようすで・・
導入の状況は殆どわからないが  機械はいつでも作動している

利用者が ほとんど決まっているのなら 
案内は ほとんど要らないかもしれませんが   観光業も?

薄すぎるアナウンス  お知らせ 案内 表示などは?という印象 
そして さらに コンランの種を撒きはじめたのかしら? とも



昨夏 北信の鉄道でも 思い知った感じだったのですが
駅員さんに従って動きましたら 別の車内に駆け込むこととなり 

ムカムカを抑えようと 気をならしているところに
お若い車掌さんが行ったり来たり・・

キャラ付の携帯ストラップのようなものを 手にされて。。
販売しておられたのでしょうね きっと  ?人前に出る訓練とか? 



   。   。   。



数日前でしたか 全国の空家率の数字がズラッと出ていました
そこには 別荘の件数も入っている と記憶したのですが ?

別荘といいましても 中には 無料で・・ 優遇されて・・ など
また 所有に至るいきさつなども さまざまなことでしょう

うわさなども あったり なかったり ということがありますが

女優さんが 旅にでかけましょう と さわやかな演出がみられ
長いこと 延々 宣伝にかかわってもいらっしゃるようす


  

平日の電車で やや目上と思われる女性のグループと遭遇します
宿では そのような方たちと すれちがったことはございません




あぐらをかいてのお仕事は 
職人さんなどに限ったことでもないのでしょう か




何かの皺寄せは どこに・・  どこまで及んでいるでしょう?




............................................................





画像は 小淵沢 身曾岐神社での 6日の水景で
建物は 神楽殿にあたる 能楽殿 だそうです


画像送付にあたり 切り出し加工の際上下をカットしたりしますが
この一枚は 水の状態などが みえるように 上部のみ削りました



はじめて寄りました



こちらの神社は 住所(の終わり)が「高天原」 なのですね



数年前にも ホームページに 一度は伺ったのかもしれません

この度 設えなどの説明を じっくり・・





能楽殿 

使用木材は全て木曽ヒノキという贅沢さで、本舞台・橋掛・鏡の間・貴人席という、本来の能舞台に必要な要素を完備。しかも、それらが舞台を中心に羽を広げた鳳凰のようにバランスの取れた配置を示しています。
さらに一連の舞台群は、その前景をなす神池の上に浮かび、水面に姿を映す風情が幽玄の境地をさらに高めるだけでなく、池水そのものが音響を効果的に増幅するという作用も兼ねています。
舞台正面の鏡板に描かれた老松は、文化勲章受章者の故守屋多々志(ただし)画伯(1912~2003年)が描いたもの。能楽界でも「1度は演じてみたい舞台」との声が高い、まさに日本一の能舞台です。
この能楽殿において、毎年8月3日に大祭の宵宮(よいみや)として『八ヶ岳薪能』を盛大に開催。当日は日が落ちると共に、神職による「篝火(かがりび)点火の儀」が行われ、迫りくる宵闇の中、神火が明々と映えわたり、それを映す水鏡という幻想的な雰囲気を味わうことができます。



というようなことで  9日にも音楽会があるようです   

いわゆる 名だたる方々・・ ね





禊殿

上流に滝、下流に能舞台前の神池があり、その中流の池に社殿が浮かぶ構造になっています。
これは神世の昔、イザナミノミコトが黄泉の国から帰り、身についたけがれを清めようとして川辺に立ち、「上つ瀬は瀬速し、下つ瀬は瀬弱し」として中つ瀬に降りられ、そこで初めてみそぎをされ、次々に尊い神々をお生みになったという神話に基づいています。
80年という長い年月をかけて湧き出る御神水・八ヶ岳の湧水が常に溢れ、上からは直接、自然光が差し込む神殿内。ヒノキの柱に壁は麻の布という一切の人工物を介在せず、自然そのものの素材による空間の中で、光と水が1つに結ばれる神域になっています。
「神は火水(かみ)なり」という古神道の思想、古事紀の世界をそのまま象徴、凝縮された禊殿は、屋根にも1つの思想が体現されています。そもそも古代日本人にとって天空とは1つの屋根であり、私たちの祖先はその天地に育まれ、素朴で豊かな暮らしを営んでいました。そのことから、他の多くの建物の屋根が外り、あるいは直線であるのに対し、この禊殿の屋根は天空や古墳をイメージした内反りになっています。
まるで雪で作ったかまくらのように、何か日本人の郷愁を誘うような神殿、それがこの禊殿なのです。



とのこと





火祥殿においては


「願いはお焚き上げされる炎によって神様のもとへ」

その結果「あらゆる災厄病魔の根元が祓い清められ、運気隆昌「よみがえり」のご守護が頂ける」よう

毎月 2のつく日の 午後二時に「奉修」・・

・・・・・そのような 試みがなされているのでしょうか





「火祥殿の神前に据えられた大きな鏡の前に、ともされている灯り。
ここに祀られている火(御神火)は、天の陽の光を地に結んだ清らかな忌火(いみび)です。

天のお日様より頂いたこの御神火は、マッチを擦って点けたのではなく、毎年1年に1度、立春の朝に昇る陽の光を集めて頂きます。そして1年間、次の立春が来るまでの間、神前に奉り、大切にお守りしています。

火祥殿の中央にある八角の壇で毎月2の付く日に行われているのが、神道霊寶火祥加持(しんとうれいほうかしょうかじ)、略して火祥神事です。」





「大きな清めと強い運気を頂くことができる」
「霊験あらたか」な「神事」

それは 「神道の護摩」と 紹介されています





「息に罪穢れが伝わっている」という項より


「では、その罪穢れ、目には見えませんが、いったいどこにあるのでしょうか?」

「いのちを保つ大切な息に、ご先祖以来の罪穢れが伝わっている」
というのが「神様のおさとし」






「身曾岐祓のご祈祷においては、実際に、「息吹の術」を修します」

「清浄を意味する麻と紙を裁ち切って、悪縁を絶ち切ります」






そのようにして「悪縁」という何かを処理されてきた ということで


関わる方々は そのようになさってきたのでしょう





(古)神道 は 古新道 とも ちがうようす




道しるべの看板も 2~3箇所ありましたか



実際に 現地で空気を味わいまして 

何かを差別化した(い)ような 試みがなされているのかしら
と感じました





「祭神である天徳知徳乍身曾岐自在神こと井上正鐵が伝えた古神道の奥義「みそぎ」の行法並びに徳を伝える1985年創建」の神社 


 



「ヒーリングルーム ひふみ」さんの「伯家神道」の項によりますと


 天武天皇が乱れた日本の国を建て直すときに、古から日本に伝わっていた教え(古神道)を、信仰として核心に持たなくてはいけないと気づきます。その時信仰を受け持つ官職、即ち『神祇官』を定めました。またその長官を『神祇伯』と言います。神祇官は、教義によって信仰を説くのではなく、宮中祭祀を司っていきました。これを称して伯家神道と言います。神祇官は白川家が相伝していったため、白川神道とも言われます。

 この神祇官は、国家神道に取って代わる明治時代に終わりを告げます。そして最後の神祇伯である白川資長郷が昭和三十六年に帰幽し、白川家は途絶えます。

ところが、伯家神道で伝えられてきた貴重な教えは、井上正鐵(いのうえまさかね)や鬼倉足日公(おにくらたるひこ)らの精進によって今に伝えられております。



とのこと





   。   。   。




口伝 ということでしたら どれくらいのものが出てくるのか
あるいは こないのか   わかりませんけれど

関連書籍は 今は手元になく それらは区内の図書館では遠方にあるようす
近くのポイントにあるものに 訊ねてみることにいたします



井上正鐵氏などが登場する部分に関しましては 
長くなりますと流れがあれですので ここの一番下に置きます





。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。





佐久絡みのものがありましたか

旧 k*blanc 2012.9.23分より



「この碓氷の嶮に拠るわが郡の盟主となって、御大業に力をおそえになってはいかがですか」 と決心を促されて

「尽忠の誠を尽くす」と表明   その後 さまざまな事態を通りすぎて 釈放され

「・・・略・・・はからずも総督府の御救護を得、つつがなくご帰京相成り候条安心致すべく候」 と 礼状に記されるような形におさまる

1863年文久3年 「源千代丸」と名のり ・・ (隊も改名「神祇隊」)


「神祇伯というのは神祇官の長官。神祇官は大宝令に制定された官庁で、太政官の上に位して神祇の祭祀をつかさどり、諸国の官社を総管した。神祇伯にははじめ花山天皇の皇子清仁親王の王子延信王が任ぜられてから、歴代その後胤の白川家が世襲していた。戦前まで白川子爵を名乗っていたのはその末裔である。」

『抵抗の佐久人』 竹橋事件より






同日分より もう少し


『日本唯物論史』笠井忠 著 からの部分

「武力と謀略によって民衆を征服した者は、しかし、次には民衆の神々を征服することなしには、その支配を安定させることができない。他方、被征服者=民衆は基本的生活物資の生産をみずからの手中に保持しており、そのための技能・技術を身につけているという決定的な強みをもっているにもかかわらず、それが常に宗教的・呪術的な観念・儀礼のもとに行なわれているために、その神々と信仰とを支配層の支配下におかれる事によって、生産物と自己自身の肉体とのすべてを支配されるにいたるという思想生活上の決定的弱点=アキレス腱をもっている」






(同日分より つぶやき)


かくれたい とか かくしたい とか フタしておいてどうこう・・ とか
ないことにして(思い通りに)すすめたい とか (○○だから)封印 とか   

それ以外にも 「教本」(や「レシピ」類)をつくらないとか 「口伝」形式とか  
なにかを「かたち」として のこさない とか  のこらない というのには


そのようになる・・(自然に)なくなってゆく   で のこっていない とか 
(事情はどうあれ証拠のようなものを)わりと のこさない というか 

のこして(かくして)どうこうするという発想がなさげ というようなケースもあるのだろうし   
ためておかずとも なにかをタイミングで 動かしゃあいいじゃん というケースや


「ない」に近いけれども なる とか






。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。





その頃 ゲリー氏の文章にふれておりましたが 人が築き上げた 
「神々」についての考察がありながらも 「神道」を推すような

そういう流れというのは この国の人間ばかりではないのだ と
あらためて認識を深めるのみならず 気を引き締めたい  とも
  


証拠となるような何かがなくても 
特別意識や刷り込みなどの覆いを「」って 

みつめたいと真に願うなら みえる・・ 
みえてくるような 何か もあるのでしょうけれど



望めば

 


。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 



「悪縁」とは どのような? 
 

「罪穢れ」の説明は よくわかりません 

「神」という何かや「ご先祖以来の罪穢れ」を その目線で。。



「悪縁を絶ち切り」というような捉え方で 何かをタチキリ




何処かの「神々」とともに なされた さまざまなあれこれは 

そのような「観念・儀礼のもとに」どのようにして・・ おさめることが可能か?








そちらから発信されている 最近のもののようですが・・

http://travel.mdpr.jp/travel/detail/1391739
「身曾岐神社の「みそぎ」とは、きれいになることなんです。心身ともに癒され、すがすがしく清らかになっていただくことで、日々を楽しく、明るく、生き生きと過ごされ、すべての良縁に恵まれる「私」になれるのですよ」





。。。。。。。?




シワヨセ は シアワセ とは 「天」と「地」ほど ちがいますのに

何事も 体験なさらないと アレなのですかね





・・・そのような悠長なあれでもなくて 

禊の起源ですとか 概念ですとか まつわるさまざまな あれこれ


(さらに遡れるような 何がしかの何か を認識しながらも) 

そこを原点とされたい 手放されたくない 
つまり そこで祀った 協力関係にある?「神々」をあがめ続ける



その「神」とやらが処理するから? んなわけないでしょう  

人がしたなら「人」ですよ  「神」をつくったのも「人」なら 


あれやこれや処理するのも ヒト    




「黄泉」との境界を明確に打ち出したような


「きれいになること」の意味付けをしたような



噴出しているのに みえないのか  未だ続けることを望まれ



何処かでは 勢いやまず・・





禊は 前宮司さんによりますと 「人為のない」「冷水」で行うもの
「ぬるま湯」は ありえない  


。。。。。水を浴びればいいというわけでもないでしょう




禊の原点を語るのなら(水でもお湯でも 浸り続けるのみならず)
是非 内緒にせずに そこに至る経過なども提示していただきたく

延々 待ち続けておりましたが そのようなものはみられない 
気配も感じられず     その気がない 

・・まさか 伝説だけで動いているわけでは ないでしょうし
裏にある「根拠」といいますか 要素などがあるのでしょうけれど





「死体に触れる」ことでの感染 
その件を 水で「アライキヨメル」習慣 と表現した方もおられ

「何とコミュニケーションしているのか」などということと 

つながっている と思うのですが
 




噴出する何かと 遺伝子研究分野で現時点でわかっている
「精神」方面との関係を学びたく 進めようとしているところでした
『やわらかな遺伝子』を注文しまして9日に到着しましたが よむのは後日に送ります





使われている(いた)方々がお片づけでしょう





。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。




この神社の舞台は屋外 ということで   どれくらいかは
夕方から夜にかけて ということになりましょうか

清里でのフィールドバレエ というのも 然り



夜ですと特に 舞台に照明というのは なくてはならないですかね  
集まるものはヒトのみならず でしょう 


舞台上にたくさん落ちている。。。。。 というようなコメントを
以前みまして  そりゃあそうだろうね・・ と 思ったものです




。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。




井上正鐵



梅田神明宮HPより  【禊教教祖 井上正鐵 霊神】

禊教(みそぎきょう)は、井上正鐡(いのうえまさがね)(一七九〇~一八四九)によって、天保十一年(一八四〇)に開かれた神道系の宗教活動で、神道の伝統・呼吸法の体得・粗衣粗食の生活習慣を教義の基本とします。

 教祖井上正鐡は、山形藩士の子として寛政二年(一七九〇)に江戸日本橋浜町の秋元家中屋敷でお生まれになり、医学や観相学を学ばれ、独自の境地に至ったのち、白川家に入門して神拝式許状を授かり、梅田神明宮の神主となられました。

そして、「天照太神」の「お誓い」を奉じて「祓修行」を行ずるならば、誰もが「信心」という救済の核心を把握できるとする民衆教化の活動を、この梅田神明宮で実践されたのです。

教祖の教えは民衆に広まり、貧しい者や富める者、また農民から有力幕臣まで、身分を越えて多くの人々が入門しましたが、やがて幕府の嫌疑を招くこととなってしまいました。

梅田神明宮で開教されて二年後、ついに寺社奉行による取り締まりを受け、教祖は三宅島へ遠島となってしまいました。そして三宅島における約六年間の教導生活ののち、嘉永二年(一八四九)に、六十歳でその地で生涯を終えられたのです。

教祖自ら執筆された寺社奉行への弁明書『唯一問答書』と、三宅島から弟子たちに宛てた書簡約二百通が残されて教典となっています。




「教祖は三宅島にて、日照りに苦しむ島民から降雨祈願を求められ、実際に祈祷を行ったところ、恵みの雨がもたらされました」



教祖が神道家としての自覚の上に「祓修行」による民衆教化を行うに至るまでには、大きく五つの源流があります」  

(略)


http://www.umedashinmeigu.net/reijin.html より 




   。   。   。




禊教/井上正鐵


いずれも1996年発刊という  何かの波 でしたか?



1996年の雑誌で とても分厚い・・ 日月神示なみのボリューム

『古神道・神道の謎』(別冊歴史読本)新人物往来社

開けて 初っ端 右に目立つ広告は 
「古神道本宮 身曾岐神社」の宣伝ですね    アゲアゲ期? 


同誌「神道関係人名事典」より

【井上正鐵】 伯家の吐菩加美神道を創唱。禊教の教祖

●一七九〇~一八四九
●秋元家五万石の勘定役安藤真鐵(まがね)の二男として誕生。神儒仏の奥義をもとめて十九歳のときから諸国を遍歴。その求道の過程で四十四歳のとき神と出会い、あくる年、伯家神道に入門し、五十歳で武蔵国足立郡梅田村(東京都足立区)の梅田神明宮の神職となり、独特の呼吸法(息吹永世いぶきながよ)による鎮魂術と世直し思想の布教活動を始める。江戸時代のたび重なる飢饉の中で多くの人々が飢え、多くの子供たちが間引かれていくという社会状況の中で、「我一飯を残して人の飢えを救わん」と発願し、神道による救済を始めるのだ。
 しかし、寺社奉行の弾圧にあい、天保十四年(一八四三)三宅島へ流され、嘉永二年同島で没した。八丈島へ流される途中の弘化四年(一八四七)十月からあくる嘉永元年四月まで、風待ちのために三宅島に滞在した梅辻規清と三日間の霊的時空を共有し、そのさい梅辻から賀茂別雷(わけいかづち)神社伝来の「布斗麻邇の法」を伝授された。なお、神道十三派の一つである禊教は、井上正鐵の高弟の一人・坂田鐵安(かねやす)が明治になって開いたもの。



同誌には (前宮司)坂田安儀氏の会話が載っており・・

水のごとし」に入れます


   
。。。お酒の席にいると思ってみる とか




   。   。   。




こちらは はじめてではないです 以前パラパラしました



『伯家神道の聖予言』(1996)羽仁礼


<今も伯家神道の行法を伝えていると主張する禊教>という項より

 教派神道一三派のうち、伯家神道との関係が最も深く、現在もその行法を伝えていると主張するのが禊教である。
 禊教は、現在、禊教と禊教真派とに分裂しているが、その創始者が、江戸時代の神道家、井上正鐵(まさかね)である。

 井上正鐵は寛政二年(一七九〇年)八月四日、上野(かみつけ)国館林藩の武士、安藤眞鐵(まかね)の長男として生まれた。この眞鐵は、国学者加茂真淵の門人であったという。
 正鐵は数え年で11才のとき、母方の縁者である富田家の養子となり、それ以来その旧姓である井上姓を名乗るようになった。正鐵は後に実家に戻っているのだが、なぜか、その後も、井上姓を名乗り続けている。

 青年時代の正鐵は禅宗に親しみ、文化六年(一八〇九年)には磯野弘道(こうどう)の門下で医学を収めている。
 さらに、文化一一年には、有名な観相家水野南北(なんぼく)の門下に入り、翌年には井上周易(しゅうい)と称して、江戸で占い師もしている。

 その正鐵が宗教に傾斜するのは、天保四年(一八三三年)のことであった。
 この年、夢の中に神の使いを名乗る女性が姿を現し、この翌年、正鐵は白川伯王家に入門し、その年のうちに神拝式の免状を得ている。
 この神拝式の免状というのは、白川家が発行した免状の一種であるが、要するに、神職を行うことを認めるという証書である。
 つまり正鐵は、伯家神道の教えを受講し、ある程度の理解を収めたということである。その後、正鐵は天保一一年、武州足立郡梅田神明宮の神職となる。

 ところがここで、正鐵はどうも奇妙な教えを開始するのである。
 それは、一種の丹田呼吸法なのだが、大声で息の続くかぎり「とほかみゑみため」と唱えさせるというものだ。
 「とほかみゑみため」という発音は、言霊学上の五元を表す言葉である。

 白川伯家の行法を受継いだと主張する鬼倉足日公(おにくらたるひこ)も、その行法の一部に取り入れていることから、これはどうやら伯家神道に起源を持つものではないかと推定できるが、正鐵のこの教えは、寺社奉行から異端の疑いをかけられてしまうことになる。

 その結果、とうとう天保一三年六月には、正鐵は三宅島に配流となり、弟子たちの赦免運動にもかかわらず、嘉永二年(一八四九年)にそこで一生を終えたのであった。
 ところが、正鐵の影響はこれで失われたわけではなかった。
 彼の教えはその死後、弟子たちによって各地に広められていくのである。

 明治五年になると、各地に残っていた正鐵の弟子たちは、吐菩加美講の名による布教を認められるようになり、翌年これを禊講社と改称する。
 しかし、もともとが各地で独自に布教を行っていた弟子たちの寄り合い所帯である。すぐに意見の対立が生じ、明治一二年には二つに分裂してしまう。
 一つは大成(たいせい)教に所属し、結局独立することなく消えてしまった。

 もう一方の一派は、坂田鐵安(かねやす)らに率いられ、明治一五年に神道禊派として神道本局に所属、一時は大社(たいしゃ)教に属するが、すぐに神道本局に戻り、明治二七年に禊教として一派独立を果たす。

 この禊教が再び分裂したのは、昭和四九年(一九七四年)一一月のことであった。
 このとき、井上正鐵を祭る井上神社が消失し、その再建にあたって、敷地の売却、本部の移転などをめぐる意見の相違が生じた。

 こうして、現在禊教真派を名乗る一派が分離独立することになる。
 いずれにせよ、この禊教は、代々伯家神道とは関係が深く、その行法も色々と取り入れている。





   ・・・・・・・・・・・・・・・





前宮司 坂田安儀氏はどうされているのでしょうか?


数年前 噂話としてよみましたあたりの ウワサバナシ的なこと


当時いくつかの部屋に寄ったような記憶がございますが・・
http://psygoatrance.tumblr.com/post/1000844871



北川敬子氏は
「信者の神仏分離の意見等を鑑み」また ある事件の
「影響を半減するため単独新興宗教を発足するに到った」

「その際、新たな団体名を決めるにあたり」
「教派神道禊教本宮「身曾岐神社~山梨県小淵沢町所在」の坂田安儀宮司に「かむながらのみち」と云う団体名を授かった」

「以後、かむながら・・は身曾岐神社のいわゆる「講」として、機能してきた」
 

禊教の宮司(坂田安儀)は
「東京上野にあった神社が火事で消失したのを期に、当時バブル絶頂期に、全国的にも熱心な信者の多かった山梨県北巨摩郡小淵沢町上笹尾に、70億円超の借金をして現在の「身曾岐神社」を建立した」

「建造が終わる頃にはバブルは崩壊し、資金を調達していた「川崎リース」も倒産、神社の敷地・建物自体が不良債権と化した」

「その不良債権を買ってでてきたのが某暴力団のフロント企業であるENYA建設(岐阜県)や、富士財団と称する埜本修率いるアウトロー集団である」

「更に東京都神社庁傘下の阿佐ヶ谷神明宮宮司などもこれに巻き込まれ、平成16年の夏のある日、祭典の後の直会(宴会)の席で一般人の前で、坂田宮司が暴力団員(静岡 太平洋産業系)に首根っこを捕まれ、引きずり回されたあげく」

・・・(略)・・・

「仲裁に入ったのが、北川悠仁の母敬子、及び富士財団の埜本達である」
「(今思うと、この件は「仕組まれていた」ものであった。)」

「その後、金銭面等の提携を身曾岐神社と「かむながら・・」は交わし、神社宮司の後妻(坂田三代子~旧姓 黒岩三代子:SM劇作家 団鬼六の実の妹 元日活ポルノ女優)は「ケガラワシイ」としてこれを神社から排除、北川敬子側近の者を神社社務所に送り込み、実質的経営権を「かむながらが・・」が握った」

「五輪ソングが大ヒットした「ゆず」北川悠仁の名義で、静岡県内の地方銀行から約5億円超を借入、競売に出された前記身曾岐神社の敷地及び建物を買い取り、登記名義は「北川悠仁」とされ、現在に至っている」


「なお、北川敬子の娘婿及びその取り巻きは殆ど暴力団関係者
(元○○組構成員)で埋め尽くされ、身曾岐神社の建物内
(光臨館企画営業室)には、神社であるのに解脱会方式の「仏間」が祀られている。更に同神社は日本能楽協会の脱税事件にも関わったとされ、宮司及びその後妻が東京地検の事情聴取を受けているという事実がある」


というような ウワサですが



鳥居に刻み込まれた お子さまの名前は・・ 

歩いていれば自然に目に入ってくる位置にありましたかね




表 入り口前に掲げられた大きな四文字 
・・どのように捉えるのかは それぞれのままに 







by mutati-on | 2014-08-08 08:00 | 旧 amorphous